あのとき言ってもらえばよかったか? 天田の叫びを遠くで聞いたような気持ちで立ち尽くす。 実際は目の前で起こっていることだ何もかも。 珍しく怒鳴ってるリーダー殿もいるし。 真田サンが棒立ちのままだ。 ゆかりっち、泣くなよそんなに、風花、落ち着いて。 桐条センパイ、……どうしよう? こういうトキは。 アイちゃん、その表情はコンワク、ってカンジだな。 コロマルが吠えててその向かってる方向を見て思う、 さっさと消えたな、あいつ。 そして荒垣サンは、倒れてる。 ゆっくりとした動きは、最初のときやそれからこないだまでずっとのときと、全然違うコトしてるみたいだった。 息が上がってるのは同じだったけど。 ひどく静かなカオした荒垣サンは今までとは違って苛々ともしてなくて、オレは馬乗りで喘がされながら、あぁ今日で終わるんだ、って何となく思ったんだ。 それが夕方のこと。 叫ぶ。起きたら、真っ暗だった。 実際叫んだかはわからないが、とにかく必死に伸ばした手は部屋の暗がりを掠めもしないで宙をさまよっている。 意味がないから、その手を布団の上へ下ろした。 ひどく情けないことに、こんな気分でもそうなるもんなのか、じんと疼いて勃ちあがる自身の存在を持て余す。 暗い夢の中で自分の腰を掴んだあの指と身体の奥を突き上げた熱はどうしようもなく、記憶する過去と違わぬものだったから。 それでも処理のためですら下腹部に手を持っていくのが面倒で、順平はひとまず寝返りを打つ。瞼を閉じれば最後になったその行為を反芻してしまうだろうから、まるで何も関係ないことを考えようとして――結局。 「何も言わないでいーから、だってあんたはオレのワガママに付き合っただけ。そうでしょ?」 何を言おうとしたのだろう、何を聞くのが怖かったのだろう。 あの時、もうあとは無言で、行為へ入っていった。首筋を鎖骨を辿る唇を思い出す、両の乳首をねぶり舐め上げる舌を思い出す、触れなかったところは彼自身がつけた傷跡だけだったくらいに余すところなく触れ撫でた指先を思い出す。 ひゅ、と息を詰めて順平は身を竦ませる。 そんな罪悪感込みで止まらない感覚の中で思い出したのは、結局荒垣とは一度もキスをしなかったな、と云うことだった。 翌日。 自分がそんなカオをするのは不相応だと、思ったから。 淡々と、一度式の途中で誰か相手に怒鳴ってしまった程度で自分にしては見事にやりこなしてみせた。 これは寮の後輩だというだけであったはずの自分のけじめだ。 相変わらず多忙なその寮の面々のおかげで、何のわずらいもなく順平は今日も一人でチドリに会いに行く。 彼女は荒垣と関わりがないわけではなかったようだから、何か報告するべきなのかだけまだ迷っている。仲間だった男がころしちゃったんだぜ、とでも言うつもりなのか自分は? と云う点だ。 チドリには今すごく会いたかった。 死を恐れないと豪語する言葉がどれだけ嘘でも、その半端な揺るがなさが今は凄く自分には必要に思えた。 逆に、すごく、会いたくないとも思う。自分がチドリに対して求められてもいないのに潔癖さを示したいと常に思っていること、それはこうもなってはいかにも、……嘘っぱちだ。 嘘と、嘘と。 「嘘だらけだ――」 慌てて、人通りの少なそうな路地へ飛び込んだ。 走って走って、中途で止まる。 キャップを被っていることがこんなに助かることだとは思っていなかった、突然すぎる溢れ出した涙の止め方がわからない。 喉が苦しくて、叫びそうになる、口元を抑えても唸るような嗚咽が漏れ出てしまう。 しゃがみ込めはせず、よろよろと立ち尽くしてビルの汚れた外壁に肩が擦れた。シャツが汚れる、と一瞬気を取られることのこの滑稽さといったらない、一転して笑い出しそうな心持ちだ。 名前が呼べない。 彼の名前を今とても口にしたい。 呼べるわけがない。 いもしない人間の名前を呼んで、どうする? だけどとても苦しいから。 「ばかじゃ、ねぇの」 思いつきで出たのは相手に向かって言えなかった言葉だった。 「あんた、マジにばかだよな……」 言えばよかった。 言えばよかったことは沢山あるんだ、言ってもらえばよかったことも沢山あったに違いない。 じゃり、と足元が鳴る、また少し脚は勝手に揺れた。 よろめいて踏み出した足の付け根が軋む。 ここ数日戦線で二軍扱いを受けていたせいで逆に怪我が治っていないことを思い出した、ひどい話じゃないか。 それは暗に身体の不調と云う意味でかもしくは、何がしか、がメンバーにも”察せられていた”ということに他ならないのだけれど、それをじっくり考えてしまうともっとやるせない。 荒垣に付けられた痕の数々は彼自身を失ったあともこんな風に残り続けている―― あぁ、何がこれでいい、もんか。 自分に向けて発せられた訳ではない声が耳の奥で張り付いている。これもまた彼の残骸のひとつだ。 気分をどうにか落ち着かせようと、順平は深呼吸をゆっくりと繰り返す。息のひと吐きごとに止まる涙の代わりに胸の中に澱が溜まるような重さが加わるけれど、泣いているよりはマシだった。 引き止めたい、特別なものでありたい支配欲は自分のものだ。 ちっとも隠せてなんかいやしない優しさが彼の弱さだ。 確かに痛くても、死にそうに追い詰められるような呼吸も止まるような無慈悲さはなかった。だからこそ終いには「そんなこと」までして何のつもりかとこちらから挑発してやりたいくらいには、荒垣の苛立ちを愉しむ余裕すらあった。 その後ろ暗さこそ、伝えられなかったことだ。 ――あんたがこんなことができるのは、オレだけだろう? 「溜め込みスギっしょ、……荒垣サンは、何も言わなさスギ」 最後のあの時、夕闇の赤黒さの中で静かに時間が過ぎていた。 がらんとした部屋で、入って早々互いに立ち尽くしている。今までなら殴ったろうこんな順平の台詞が背に唐突に掛けられても、反応は返ってこなかった。どこか憑き物でも落ちたような荒垣の横顔は傍にいながらとても遠かった。 「訊きたいことでも、あるのか?」 表情のない瞳は寮の部屋でもこの部屋へ来る間でも、この部屋でも、きちんと順平を映そうとしていなかった。それが本来の姿で立ち位置だ、と順平だって理解をしているから、何か質問がしたいわけでもない。ただ、何でもいい、何か本音を言ったことがない、そんな口元は確かに少々憎くもあるかもしれない。 何度、言いたいことがあるなら言え、とつのりかけたか。 ふと気付くと、そんな目が自分を向いていた。 「……荒垣サン?」 間違いなく自分に焦点が合っていて、にわかに不安になった。 自然さを探しながら首を傾けて、キャップのつばで視線を遮る。こんなに真正面から彼が自分を見ようとするのが一体いつぶりなのか、すぐには思い出せずに戸惑う。 目を伏せた分だけ、荒垣の所作に気付くのが遅れた。 腕を乱暴に引かれたと思う間に、ベッドに押さえつけられて上に体重が乗る、きつく抱きしめられていて身を動かせない。 鼻先に被る荒垣のぱさついた長い髪がくすぐったい。 順平、と囁かれる声はやけにかすれて聞こえた。 その意味は別に欲していない、と、順平は無言と無心でやけに遠く思える天井を眺め続ける。 二の腕ごと抱きすくめられているせいで動かせない腕をベッドの上で放置したまま、僅かに入っていた肩の力を抜く。 暑いし重いと思ったが、荒垣は体勢を動かしそうにはなかった。 ゆっくりと予感だけがやってくる。 本来が、戻ってくる、正しい意味の、本来が。 じゅんぺい、ともう一度呼ぶ小さい声は荒垣に似つかわしくなくてどちらかといえば悲しくなった。 「……何すか」 できるだけ何も考えていないような声を出した。 愚かさは自分の長所のはずだ。 荒垣の言葉は返ってこない、相手が何を言うつもりなのか解らないと云うイメージで、先に自分の台詞が口をついて出た。 「何も言わないでいーから、だってあんたはオレのワガママに付き合ってるだけ。そうでしょ?」 肯定も否定も返ってこない沈黙。 「……オレがあんたの傍にいたい、ってだけ。それでいいじゃん」 余計な感情はうっとうしかった。 そんなものはないほうが、きっといいのだ。訊きたいことが自分からあるとすれば、それは今荒垣が抱えているべき問題についてのことだけで、自分との問題のような余計なものはどうでもいい。 けれど結局彼は「芯の話」を言わずじまいだ、今まで。 そしてこの状況でその話をとうとうしようと云う訳でもないだろう、なら、もう話し合おうと言うのは必要がなかった。 先へ先へと丸投げしていくのが疲れたのかもしれなかった。 ――何を、 もうひとつくらい余計なことを吐こうとする前に荒垣の唇が首筋に押し当てられて、順平は口を閉じる。 何も言わない方がいい。 身じろいで腕を少し動かす、指先を荒垣の背へ乗せた。 あのとき、 彼は何を言おうとしたのだろう。 自分は何を聞くのが怖かったのだろう。 まるで愛の告白でも聞かされそうだと思った、あのとき。 「……あ、」 笑わなければいけないところだと思うのに、つかえた喉の奥で巡ったのはまた泣き叫びたい衝動で。 そんな訳があるかと自分でも可笑しくなるくらいに必死に理性は否定しているのに、本当はそうであって欲しいと強くもうひとつの感情が願っている。けれど。 聞かなかったのだから、真実がわかる訳がない。 そしてもうわかる機会はない。 「なんだ、」 馬鹿は、自分もだ。 「……あらがき、さん」 苦し紛れにようやく出てきた言葉は彼の名前で、何だかずいぶんと久しぶりに呼んだ気さえする。 彼の手や足が残した痕なんかよりも、ずっとずっと痛む。 何でこんなことになってるんだろう。 喉が引き攣れる。 けれど気分は妙に冷静で、いつこの場を出てまた通りを歩いて行こうかと考えているくらいだ、いや、身体が落ち着かないからか。 ビルの隙間の空が目に入る、まだ青いその色が無性に腹立たしいのは、あのきっかけの日もそれがそんな色をしていたからだ。 もちろん、転嫁に過ぎない。 強い足取りで路地を抜けた、通りを行く人にぶつかりそうになって寸でで避ける、振り返りもしないで人の波をかき分けた。駅前通りはいつだって学生を中心に人が多すぎる。 帰り行く急ぎ足の制服姿の人間、デートにのろのろと戯れる人間、待ち合わせにか立ち止まったっきりの人間、携帯片手に走っていく人間、雑多に様々な人々が目の端に映っても、自分に必要な人間はもう現れることはない。 通りを進む、駅前はとっくに通過して、慣れた病院への道のりは少し人が減る。上がった息を整えながら、順平は歩みを橋の前まで来たところで止めた。 好きだったんだ。 確認するように呟いたきり、もう振り返らない。 橋を渡る、日差しはまだ暑い。 |